荷風の耳による音風景と現代の音環境
 現代の音環境に比べて、我々の一世代前の音環境は随分違っていた。その音環境の移り代わりの要因の一つとして、世の中の移り代わりがあげられると思う。この変化してきた日常をみるのに大変適した本として永井荷風の「断腸亭日乗」がある。この本は、荷風が大正6年(38歳)から昭和34年(80歳)に亡くなるまでの42年間の自由奔放な生活を日記風に書いたものである。日記は天候、花鳥風月、読書、世相への批判、東京の風俗の変化、羅災、女性との交渉などの万般に渡っており、同時に環境や生活に密着した音を的確に人間的な視点でとらえて表記している。したがって、この荷風の日記をみていくと当時の音環境がまるで目の前にあるがごとくよくわかる。荷風の生活は、常に耳からはいってくる音と共存しており、時期、時代を音風景からかいま見ることができる。
そこで、日記の中で音に関する記述を全て拾い出してみると約600語にものぼる。その中で、自然現象としての音に関する表現(水、樹、竹、虫、風、雨、雷、鳥など)は、音に関する記述の約1/3を占めており、42年間の日記全体を通して記述されている。現代の生活では、なかなか耳に入りにくい音が随所にみられる。
特に虫の音(LAeq:35dB〜45dB)を取り上げた表記は大変多く、蟋蟀(LAeq:60dB)が良く現れる。荷風にとって秋を感じる代表的背景音であったようだ。

・ 蟋蟀頻に縁側によりて啼く。(大正6年9月17日)
・ 夜は蟋蟀の鳴音昨夜に比してさらに滋くなりぬ。(昭和4年8月26日)
・ 蟋蟀昼のより鳴きしきる。(昭和7年9月初3日)
・ 蟋蟀の声夜ごとにせはしくなれり。(昭和7年9月12日)
・ 黄昏早くも蟋蟀の鳴くをきく。(昭和13年8月19日)
・ 夜初めて蟋蟀の鳴くをきく。(昭和14年8月12日)
・ 前庭に蟋蟀の鳴出るを聞く。(昭和15年8月念1日)
・ 秋蝉声漸くせわしなく昼の中より蟋蟀も鳴く音を立る秋の日となれるなり。(昭和18年9月10日)
 次いで、鳥の鳴き声(小鳥LAeq:50〜55dB、鶯60dB、からす68dBなど)、雨の音について多く書かれている。
 シトシト降る雨からザーザー降る雨まで実に表現豊かに記されている。
・ 百舌始めて鳴く。(大正6年10月4日)
・ 四十雀郡をなして庭寿に囀る。(大正11年11月5日)
・ 鶯の声眠りより覚む。(大正13年3月19日)
・ 鶯の笹啼き聞ゆ。(昭和4年12月初2)
・ 鶯終日啼く音をやめず。(昭和10年3月10日)
・ 晴れて風冷に鵙の鳴く声頻なり。(昭和10年10月9日)
・ 忽然晩鴉三、四羽鳴つれて西方に飛行くを見る。余鴉の声ききしはたしか昭和五年の夏牛込みに
 遊びし時にして、平生これを聞くことなければ、珍しきまま記して備忘となす。(昭和11年4月19日)
・ 秋雨連日さながら梅雨のごとし。(大正6年9月16日)
・ 秋雨庭樹を騒がす。(大正6年9月16日)
・ 雨一時やみたれば銀座に住かむとするに雷鳴りひびきて雨また車軸を流すが如し。(昭和10年9月24日)
 虫の音、鳥のさえずり、雨の音などは高周波の音を多く含んでおり、現代都市のノイズのなかではかき
 消されてしまいがちであるが、荷風の時代では四季おりおりの移ろいを感じる豊かな背景音であったのである。
 社会の生活で生じる音を日記の中に探してみると、その時代特有の音が聞こえてくる。
・ 朝鮮国王崩御の由。三味線鳴物御停止なり。(大正8年3月3日)
・ 表通りには下駄の音なおやまず。酔漢の歌いつつ行く声も聞こゆ。(大正12年12月31日)
・ 市中電車雑とう甚だし。(大正9年正月3日)
・ 除夜の鐘鳴る頃雪やみて益々寒し。(大正9年12月晦日)
・ 正午の砲声に睡より覚む。(大正11年正月元旦)
・ 炉上湯のたぎる音雨の如く、(大正15年正月22日)
・ 夕餉の後三番町に往き除夜の鐘を聞いて家に帰る。東の窓少しあかるくなり牛乳配達夫の木戸あける音の
 きこえたれば、(昭和3年12月31日)
・ 号外売りしばしば門外を走り過ぐ。(昭和6年9月22日)
・ 天井を鼠の走り騒ぐ音。昼夜のわかちなく庭に虫の鳴きしきる声。暑き夏の日団扇つかふ静なる音。
 女どもの煙管にて竹筒の灰吹叩く鋭き響。(昭和7年4月14日)
・ 平日よりも物音なく豆腐屋のラッパの声のみ物哀れに聞るのみ。(昭和11年2月26日)
 このように、道行く人の下駄の音を遠く近く聞き、鼻歌を聞き、遠くの鐘の音に耳を傾ける。時が静かに流れ、
 身の回りにある音を全てを含めて生活の音を楽しんでいることがわかる。しかし、近代的な情報機器としての
 ラジオや蓄音機から発せられる音について察するに、荷風はこれらの人工音に対して嫌悪感を抱いている
 ことがうかがいしれる。
・ 蓄音機の音騒然たる。(大正14年12月5日)
・ 飛行機自動車ラヂヲ蓄音機などの響絶え間もなき今の世に折々鐘の音を耳にする事を得るは何よりもうれ
 しきかぎりなり。(昭和10年5月10日)
・ 終日隣家のラヂヲにくるしめらる。(昭和14年9月21日)


新宿余町、断腸亭のあった附近
より望む風景
大型スクリーンと拡声器(看板広告)
 ところが昭和18年頃から戦争に絡む音の表現が非常に多くなる。サイレン、飛行機、砲声などが頻繁に書かれており、壮絶、悲痛な音の表現であふれている。終戦を迎え、空襲警報を聞かない事を最大の幸福と思ったのもつかの間、隣室のラジオに悩まされる日々がやってくる。

 日記を通してわかる事は、荷風の時代は都会に住んでいたにもかかわらず、今よりも世の中全体が静かであり、心休まる自然音に溢れていたということである。では、荷風はこれらの音を何処で聞いていたのだろうか。日記の『断腸亭』と名付けた庵を建てた現在の新宿余丁町(抜弁天の近く)、麻布、それに千葉県市川市界隈に住んでいた頃である。
 

余丁町の路地裏

 昭和6年4月以来、脚気治療のため中州の病院へ通院していた荷風は、吾妻橋、曳舟、玉の井(東向島)、堀切、千住方面へと足を運んでいた。果てしない空想に身を沈めたいとの思いから郊外をよく散策していた荷風は、自らの心に調和する風景を求めて散策するのである。短い文章中は明確でリアルな音表現に富んでおり、彼の音に対する感性は大変鋭敏であった。現代の音と比べて、荷風が聞いていたような音というのは、今や街中では聞くことのできない音であり、耳から見ると非常にすっきりしためりはりのある空間であったと言える。

 では、現代の音環境はどうかと言うと、場所や季節により大きく変わりつつある。特に我々が便利さのために持ち込んだ情報・通信機器から発せられる音が至る所で耳に残るようになってきた。荷風はラジオの音を聞きたくないために、耳に綿をつめたことがあったが、現代の都市部において望むと望まざるとに関わらず、携帯電話の呼び出し音が所かまわずに耳に飛び込んでくるし、スピーカーからの音や電子音で街中あふれかえっている(LAeq:73dB)。また、ここ1〜2年間に急激に増えている音では、人々の集まりやすい場所に大型のスクリーンが設けられ、家庭のテレビと同様な宣伝広告の類がその両脇に設置されたスピーカーから大音響(LAeq:75dB)と共に映像のシャワーとして降り始めた(これをある民法テレビ局では看板広告と称したが……)。

 このように、我々を取り巻く音環境は非常に変化し、生活上必要な情報としての音も時代と共に変わってきている。特に、都市部の音の種類は次第に増加の傾向にあり、聴覚による認識も変化していると考えられる。人々は日常生活上多くの音に耳が慣れ、音を音として認識する意識が薄れてきていると思われる。我々音に携わる人間はこのような音の氾濫した世の中を音環境の上で、人間の耳から見てすがすがしく心休まる背景音のある都市づくり、地域づくりをしていくことが大切でないかと考える。



表2-1 一般環境の音




表2-2 一般環境の音






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